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東京国立博物館共催企画|清少納言がいた京都に行き、そこに立ちたい。――制作資料展と講演会を経て

November 21, 2025

 


清少納言がいた京都に行き、そこに立ちたい。
アニメーション映画で平安時代を見つけ直す。
でも、どうやって。
そこはどんな世界だったのか。

 講演会 Lecture 

清少納言がいた京都に行き、そこに立ちたい。
Standing in the Kyoto of Sei Shōnagon’s Time
講演時間:13時30分-15時30分(13時入場開始)
会場:東京国立博物館 平成館大講堂
受講料:無料 ※東京国立博物館無料観覧日
登壇:片渕須直(アニメーション映画監督)
   松嶋雅人(東京国立博物館学芸企画部長)
聞き手:薗部真一(『週刊文春エンタ+』(文藝春秋)編集長)
 ※事前予約制

 
 

 展示 Exhibition 

新作『つるばみ色のなぎ子たち』制作資料展
The Mourning Children–Production Art&Research Exhibition
会期:2025年10月28日(火)~11月3日(祝・月)
時間:9時30分 – 17時(金・土曜日、11月2日は20時まで)
会場:東京国立博物館 平成館1階ラウンジ
料金:東博コレクション展入館料が必要

 
 

 千年前の平安時代を、従来の華やかなイメージから解き放ち、「再発見」と「再構築」を通して立ち上がってくる実像へと迫った映画『つるばみ色のなぎ子たち』。東京国立博物館で開催された本作の制作資料展と講演会では、その試みがどのように形づくられていったのか、監督と制作チームが積み重ねてきた表現のプロセスを、多くの方にご紹介する機会となりました。
 
 『この世界の片隅に』で戦中の暮らしの「息づかい」や「空気感」を丁寧に描き出した手法をさらに発展させ、本作では千年前の人々が置かれていた「喪」と隣り合わせの日常に光が当てられています。死と向き合い続けた時代に生きた人々の心のありようを、現代の視点からどのように読み解き、映像として結晶させていくのか――。
 
 今回寄せられた有識者の皆さまのコメントは、こうした作品の核心に新たな光を当て、展示と講演で共有された知見をさらに深めてくれるものです。
 以下に、その言葉の数々をご紹介いたします。

 

COMMENT

日本大学・横田正夫 医学博士・博士(心理学)

片渕須直監督の「清少納言がいた京都に行き、そこに立ちたい。」によせて

令和7年11月3日に東京国立博物館で開催された片渕須直監督の講演「清少納言がいた京都に行き、そこに立ちたい。」は、アニメーションを考えた時に大変意義深い。国立博物館という場で、アニメーションが扱われたこととそこでテーマとなったのが清少納言であったことから、アニメーションの進行中の探索が、学術的に、博物館で扱われるべきレベルのものといった評価が定まったということなのであろう。
 
ではその講演は?

片渕監督は講演で平安時代といったことで得られる雅な一般常識的なイメージを壊すことから始める。疫病によって京都に住まう住民の約半分が亡くなったという衝撃な事実を、データを基にして、示す。毎年にどの位の人数が亡くなっているかのリストは、事実に基づく映像づくりの基本を示してくれる。これまでに公開されている映像において、道の中央で、蚊に刺されて感染症によって倒れてゆくらしい人を見せてくれていた。死が身近であることの現実は、コロナ禍を経過した我々には、決して遠い過去の物語では済まされない。

タイトルにあるように「京都に行き、そこに立ちたい」という京都の再現は、実に緻密である。建築の詳細を再現するような建物の図面に始まり、京都の地形を基にした水の流れの説明や、牛車の轍は広い道の中央にあったといったこと、病を家に入れないように門を閉じていたといったこと、死者を出した後で喪服をどのくらいの期間身に着けるかということ、半年ごとに衣服を変えるのが当時の制度であったなどということに至るまで、時代の背景を事細かく再現する。その再現は、時代の風景に、清少納言が確かにいて、彼女が自身の目で何を見、何を感じたかを我々に想像させてくれる手掛かりを提供する。宮中で右を向けば何が見え、左を向けば何が見えるかの再現をすることで、あたかも我々が清少納言の目を通して宮中の出来事に立ち会うことができるかのようになる。それこそが「立ちたい。」といった願望を叶えるものなのであろう。アニメーションで描くものはあくまでも具体的な事物であるので、清少納言が確かに見たであろうものを再現することによって当時の京都に、我々が、立ち会うことができる。その試みは広島や呉の街を前作で再現して見せたことの、より困難な、応用である。片渕監督は、自身の内面にあるものでシナリオを書き、それでアニメーションを作りたいとは思わないという。それは自分の中のものなので、すでに知っている。そのため面白くない。知らないものを知るようになることでワクワクする。平安時代の京都、そこに生きる清少納言は、まさにリアルにワクワクする、見たい人なのである。

清少納言は、宮中の人で、平安時代の職業人である。職業人であるということ言えば、現代に生きる我々職業人の先達である。その彼女も初めは新人で初々しかったであろうが、年を経て、中間管理職になり、その重責を感じたこともあるかもしれない。そうした職業人としてのキャリアは、今の我々における切実な問題を投げかけてくれる。上司をはじめ、同僚との関係、男性官僚との関係、それらはすべて現代に通じる。その意味では平安時代の清少納言の体験した組織はまことに興味深いものがある。片渕監督は、清少納言の同僚の名前を特定し、彼女たちのパーソナリティを含めあり様を再現しようと試みる。アニメーションならではの試みである。

余談で述べられたことであるが、アニメーションの新人教育も興味深い。現在制作中の彩色されていない新人による線画のままでの動きの一部が紹介された。新人に、動画を、鉛筆を使って、紙に描くことを課しているという。これは片渕監督が自身の目で調べた事実をもとに作品を組み立ててゆこうとすることにつながる。自身の手を動かす運動感覚を通して再現された動画のもとになるもののイメージは、動きのひとつの全体(ゲシュタルト)として得られたものの再現であろう。ゲシュタルトがつかめて、部分を調節できる。ゲシュタルト心理学が教えるように、部分をただ単に積み重ねても、ゲシュタルトには至らない。全体のゲシュタルトの把握が先になければ、部分は生きない。そうしたゲシュタルトをなす動きの本質への感受性を、新人教育に、求めている。アニメーションの簡便な学びの方法への警鐘である。

講演会の始まる前には、会場の前に展示されたアニメーション関連資料を前にして、そこの人々にさりげなく近づき、資料の背景を熱心に語りかけている片渕監督の姿があった。講演の舞台の上手にはポスターに描かれた中宮定子のような上位の身分の女性が身に着ける衣装が再現されて置かれており、下手にはその夏服が再現されて置かれていた。資料について語る片渕監督も、舞台の衣服について語る片渕監督も、どちらも同じように、旅に出て出会った楽しい出来事を、周りの仲間に楽しそうに語る姿に重なる。その姿は、「清少納言がいた京都に行き」、そこでの旅の体験を、物語っているようなのである。

片渕監督の語りは、自身の作品を作り上げる方法と、新人教育の在り方と、そして自身の生き方が見事に合致していることを示している。作品の完成に、今から、期待したい。

 
 

山中悠希 立正大学文学部文学科日本語日本文学専攻コース教授
専門は平安文学、『枕草子』本文の研究。

『枕草子』の舞台となるさまざまな場所や建物についての緻密な検証と、描き起こされた設定画の数々に感嘆いたしました。
人物設定画や装束の復元、アニメーションの一部まで拝見でき、清少納言たちが確かに「そこにいた」空間が鮮やかに立ち上がってくるようでした。
1000年の時を隔てた平安時代の景色が現代を生きるわたしたちの前にこのように立ちあらわれ、『枕草子』の世界を視覚的にとらえなおすことができるようになることは、本当に画期的な営みだと感じます。完成の日を心より楽しみにしております。

 
 

入口敦志 国文学研究資料館 教授・副館長

片渕監督には、国文学研究資料館「ないじぇる芸術共創ラボ」のAIR(アーティスト・イン・レジデンス)として、ワークショップやトークイベントをご一緒していただきました。片渕監督の知識や調査力は、平安時代を専門とする研究者をも驚かせるようなもので、私たちも大変刺激を受けています。その緻密な調査から生まれてくる『つるばみ色のなぎ子たち』がどのようなものになるのか、その片鱗が今回のご講演でも垣間見えましたし、期待も大変高くなりました。完成を心待ちにしております。
 
 

承香院 平安時代・周辺文化実践研究家

◆『つるばみ色のなぎ子たち』への期待

片渕監督がさっとパソコンを開いて、膨大なフォルダの中から「えーと」と仰りながら、綺麗に色分けしてまとめられた資料を、エクセルファイルでお見せくださる。ここ数年間、幾度となく目の当たりにしている光景ですが、私はそのたびに胸が高鳴るのです。かつて、文字と写真と図で色とりどりに平安時代が解説された国語便覧を何度も見た時のあの気持ちに似ています。

私はコントレールさんのスタジオを訪ねる際には、アニメーションの制作スタジオというよりは「平安時代総合研究所兼『枕草子』テーマパーク」を訪れている気持ちになります。もちろん、平安時代に関する研究は研究機関をはじめ様々な場所で行われ、その素晴らしい成果は日々更新されています。

そうした中で、「つるばみ色のなぎ子たち」の制作現場でのリサーチに、私が特別な期待と胸の高鳴りを感じるのはアニメーション映画の制作という特殊性なのだろうと思います。それは、片渕さんをはじめ、プロデューサーさんやクリエイターの方々から幾度となく伺った「一方向からの静止画ではなく、いろんな角度で、様々な場面の清少納言を動かさなくてはいけないのです」という特殊性です。

皆さまもご存じの通り、アニメーションの動きは少しずつ異なって描かれた沢山の静止画が連続して作られています。つまり、描かれた人物が一歩進んで振り返ったりすれば、その時の衣のシワ、袖口や裾のシルエットがすべて動くわけですが、原則的には、その一連の現象をすべて絵画にしなくてはいけないわけです。それも、本作品では千年も前の人々の動作や動作によって起こる現象の細部を描かなくてはいけないということになります。

そして、そこに出来るだけリアリティを持たせるためには、例えば、衣服の数センチの構造上の違いによる動作への影響、歩いている当時の道が平らなのか、わずかにでも傾斜しているのか、そんな小さな事実を丁寧にリサーチする必要があるというわけです。そしてそれに取り組んでいるのが「コントレール(私の中では「平安時代総合研究所」)『つるばみ色のなぎ子たち』班」なのです。

先日開催された、東京国立博物館での資料展は、まさにそのデータの一部が絵画化されるなどして展示された画期的な展覧会と講演でした。その探求の精緻さは各分野の専門の研究者の皆さんをも唸らせるものだったと思います。それらの制作資料は、すでにそれ自体が平安時代に関する研究成果でもあり、比類のない傑作作品であるようにも思います。

片渕監督をはじめ、関係者の皆さんによって、千年前に確かにそこに存在した人々、そこに吹いていた風や流れる水の音、日常の暮らし、彼らの感覚を可能な限り丁寧に探求しながら制作されている本作に、私もほんの微力ながらも関わらせていただきつつ、同時に、観客の一人としてはその完成が楽しみでなりません。

それともうひとつは、片渕さんによる平安中期リサーチは、作品完成後もますます深化しながら続くんだろうなと確信しつつ、そちらも楽しみでならないのです。
 
 

赤澤真理 大妻女子大学家政学部ライフデザイン学科 准教授
平安時代の物語・絵画に示された日本の住まいとしつらいに関する研究

3年ほど前に監督のお話をお伺いしましたが、そこからさらにすすんで、範国記などの近年刊行された史料も参照されているとお聞きして、驚きました。
儀式書を基にした清少納言の動き、暮らし、宴会や賀宴などの再現を期待しています。
再現された内裏は、中国的な雰囲気も感じられ、重厚感がありました。
展示されていた装束の裳も美しかったです。

監督のおっしゃった、「自分の空想ではつまらない、客観的な事実をつかみ、押し出したい」というお言葉にも感銘を受けました。
CGでは嘘っぽくなってしまうので、人が感じた心象風景を表したい、ということに研究者としてもはっとした思いがしました。
奥にひきこもっていた清少納言が、御簾の外の男性と対話していくことで、変わっていく様子をジェンダー論からみていきたいというのも、共感いたしました。

個人的に監督に、国宝源氏物語絵巻の女房たちの姿勢がタイの王室儀礼にみられるとお聞きして、置畳の成立など、平安文化も作法や行動なども広い視野から考えていく必要性をあらためて感じました。
かつてあった平安の文化、色彩や文様、風、光、音、五感などが再現されることで、あらためて日本の文化を若い人たちや世界に伝えることができるのではないかと思い、楽しみにしています。

 
 

薗部真一 「週刊文春エンタ+」(文藝春秋)編集長
元『このマンガがすごい!』編集長、『翔んで埼玉』(魔夜峰央)、『万引き家族』(是枝裕和)などの編集を担当。

片渕須直監督の作品制作は、特にキャラクターの感情をとらえるうえで、類を見ない手法をとっていると考えている。
まずは、その時代や場所の「事実」に徹底的に真摯に向き合う。それによってとらえた、その時代や場所の「空気」、すなわち共通した価値観や行動原理のようなもののなかに、そこにいたであろうキャラクターを置いて、感情の動きや行動を想像していく。
今回の国立博物館の展示は、片渕監督のそういった手続きの第一段階を見るもので、監督が見出した「空気」の中に、主人公である清少納言はもちろん、展示を観る私たち自身を置いてみるという思考実験もできる試みだったように思う。
ある種のワークショップ的な趣向もあり、制作中にしか我々に開放されないリアルタイム性を楽しむという点でも、稀有な展示だったように感じた。

 
 

原由来恵 二松学舎大学文学部国文学科教授
著書『枕草子の読み解き―地名類聚そして言語遊戯』

千年の時を超えてつながる平安時代と令和。
その時代考証力と緻密さは学説的な発見さえ促す。
絵空事に留まらない清少納言・中宮定子が生きた時代が鮮やかに蘇る。
人々の営みの再現に誠実だからこそ、時代、文化、国を超えて「人」そのもののリアルな物語が観る人々を魅了しているのだろう。

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『枕草子』「清涼殿の丑寅の隅の」に登場する「北のへだてなる御障子(手長足長)」。
その先にある清涼殿東庭北東の「滝口」と呼ばれる御溝水の落ち口近くにある渡り廊の再現をここまでこだわって表象した人はどれだけいるのだろう。
中宮定子・清少納言が生きていた時代の内裏、その場所を地層・建築という観点から分析し「片渕(コントレール)内裏図」を立体的に構築してしまった。
世界に誇る日本のアニメーション文化、様々な人が作品を見る。これまでの片渕監督作品同様に、その影響力に対して責任感を持って作品制作に取り組む姿勢に改めて感激している。
その誠実な取り組みは、令和に千年前の日本を映し出し、平安時代の人々の営みを我々の前に時を超え現実味をもって突き付けてくるだろう。だからこそ不変的な人間の感情が、時代・文化・国を超えて心に迫ってくるのかもしれない。
それは片渕監督(コントレール)しか作れないエンターテインメント。
『つるばみ色のなぎ子たち』が証明してくれる。

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古典文学作品を題材にした映画、TVドラマ、舞台、ネット配信動画、マンガ、小説は数多くある。また昨今は「ICT教育」の環境整備が進み、学校教育現場において教科指導におけるICT活用が推進されているため、デジタル教材、作品解説動画も多々存在する。
ではそこに表象された世界観はどこまで正しいのだろうか。リテラシーの問題と言ってしまえばそれまでかもしれない。また作り手が作品の内容が伝わること、文法が解説できていること等をメインにし、詳細な当時の衣食住の確認はこだわらない、または興味を引くために敢えて今風にアレンジすることもあるのかもしれない。
確かに日本の伝統文化は「継承」のみならず「享受と変容」を繰り返し現代に残ってきた。またそういう多様な変化と、新たな創作の才能が融合して素晴らしい作品が生まれてきた。

しかし一方で、それらが情報やイメージとなって、曖昧な認識や誤解したままの状況を生み出すこともなかったわけではない。
『枕草子』清少納言の時代、彼女はどのような場と環境で、どのような世界を見てきたのだろう。そして何を思い『枕草子』を紡いだのか。「春はあけぼの」となぜ思ったのだろう。
『つるばみ色のなぎ子たち』は、平安時代、特に『枕草子』清少納言・中宮定子の時代に対して誠実に向き合い、衣食住を含め緻密な考証と検証をされて描かれたアニメーションである。
中宮定子、清少納言、登場するキャラクター達やストーリーはオリジナルデザインされたものである。しかし背景にある確かな平安時代の人々の生活やその営み、キャラクター達のコンテクストは研究を重ね千年前を忠実に再現しようとしている。
だからこそ、千年の時を経ても作品から表出する世界観にはリアルが感じられる。
この映画はただの優れたエンターテイメントに留まらず、日本文化の基底や日本の古典文学作品の楽しさを教えてくれる作品であり、国語「言語文化」理解の一助にもなる作品だと信じている。

 

奥野邦利 日本大学芸術学部映画学科 教授

東京国立博物館での講演会に参加して

フィクション、ノンフィクションを問わず、何らかの世界を描き出す上で、映画制作は調査と研究の連続であり、それゆえに社会の鏡として分析されることも多い。しかし、とりわけ片渕監督が調査研究に注ぐエネルギーは尋常ではなく、それは映画的想像力を超え、過ぎ去った現実を、まるで目の前のことのように眼差す特別な力によるのではないか。SF映画に時空を超えるタイムトラベラーが登場するように、片渕監督自身が映画の登場人物のように感じる時もある。はたして、その監督が創り出す平安時代とは如何なるものか、今回の講演や展示からも次回作『つるばみ色のなぎ子たち』への期待が大きく膨らむ。

 
 

詳細:東京国立博物館